会社員を辞めてフリーランスになると、税金が見えるようになる。
これは比喩ではない。会社員時代、税金は給与明細の数字でしかなかった。天引きされる額をじっと見つめたところで、そこに自分の意思が入る余地はない。年末調整の紙を出せば、それで終わりだ。
フリーランスになった瞬間、それが全部ひっくり返る。
所得税、住民税、国民健康保険、国民年金——全部自分で計算して、自分で払う。はじめての確定申告で、自分の所得に対していくら税金がかかっているのか、はじめてちゃんと見た。見えた瞬間、こう思った。
「……高くないか?」
たぶん、サイドFIREを考えている人の多くは「いくら資産があれば辞められるか」「配当はいくら必要か」を計算している。私もそうだった。でも辞めた後に最初にぶつかったのは、そういう話ではなかった。
「見えなかったものが見える」だけで、人は打ちのめされる。
これが、サイドFIREして一番後悔していることの入り口だ。
見えていたのに、出さなかった紙——iDeCoの話

iDeCoは会社員時代からやっていた。
当時の掛金は月2万3,000円。年間27万6,000円が所得控除になる。給与天引きで積み立てていたから、正直なところ「やってる」という意識すら薄かった。
フリーランスになると、iDeCoの掛金上限が変わる。月6万8,000円。年間81万6,000円。会社員時代の約3倍だ。
この事実は、辞めた直後から知っていた。iDeCoの加入者区分を「第2号」から「第1号」に変更する手続きをしたとき、書類に上限額が書いてあった。見た。読んだ。理解した。
——で、2年間、月2万3,000円のまま放置した。
なぜか。
理由はいくつかあるが、正直に言えば「めんどくさかった」が一番大きい。掛金の変更は、書類を取り寄せて、記入して、届出を出す。資産運用の配分も見直したほうがいいかもしれない。そう思っているうちに、確定申告の時期が来て、他のことに追われ、そのまま翌年になった。
もうひとつ言えば、「月4万5,000円を追加で老後資金に回す」という判断に踏み切れなかった。フリーランスになったばかりで、収入の見通しが立っていない。手元の現金を減らすことへの抵抗感があった。
これは投資家としてどうなんだと自分でも思う。株を買うときは数十万円を躊躇なく動かすのに、iDeCoの掛金を月4万5,000円増やす決断ができない。
でも、たぶんこれは私だけじゃないだろう。
株を買うのは「増える可能性」にお金を出す行為だ。気分がいい。一方、iDeCoの増額は「将来の税金を減らす」行為で、目の前では何も起きない。60歳まで引き出せないお金が増えるだけだ。どっちが心理的にラクかと言えば、圧倒的に前者だ。
年間54万円の控除差分(81.6万−27.6万)。所得税率10%+住民税10%で計算しても、年10万8,000円の節税。国民健康保険料の減額まで入れれば、もっと大きい。
その紙は、手元にあった。出すだけでよかった。出さなかった。
見えてすらいなかった制度——小規模企業共済の話
iDeCoが「見えていたのに動けなかった」なら、小規模企業共済は「見えてすらいなかった」だ。
小規模企業共済。フリーランスや小規模事業者のための退職金制度で、掛金は月1,000円から7万円まで。全額所得控除。年間最大84万円。
この制度を知ったのは、フリーランス3年目の春、2回目の確定申告を終えたあとだった。
確定申告のあと、税理士に「節税対策はしていますか」と聞かれて、「iDeCoはやっています」と答えた。「小規模企業共済は?」と返されて、「何ですかそれ」と言った。
3年目の春だ。つまり、2年間この制度を知らずに過ごしていた。
iDeCoの上限引き上げと合わせると、年間の控除枠はこうなる:
- iDeCo上限: 81万6,000円
- 小規模企業共済上限: 84万円
- 合計: 165万6,000円
会社員時代のiDeCo(27万6,000円)を引くと、フリーランスになって使えるようになった追加の控除枠は年間138万円。
これを2年間、まるまる逃した。
所得税率10%+住民税10%だけで年27万6,000円。国保の減額分を加えると、年30〜40万円。2年間で55〜83万円。
控えめに見ても、軽自動車が買える額だ。
見える→動ける、ではない
税理士に小規模企業共済を教えてもらったその月、すぐに加入した。iDeCoの掛金も上限まで引き上げた。
「知ったらすぐ動いた」と書くと聞こえがいいが、逆に言えば、知らなければ動けないし、知っていても動かない。
iDeCoの増額は、知っていて2年放置した。小規模企業共済は、知らなくて2年逃した。結果は同じだ。2年分の控除枠が消えた。
ちなみに、税理士に相談した費用は年間で十数万円だった。逃した節税額のほうがはるかに大きい。「税理士代がもったいない」と思って自分でやっていた2年間のほうが、よほど高くついた。
ここで「だから早めに税理士に相談しましょう」と書けば、それっぽい記事になる。でも、それは本質じゃない。
本質は、制度を知ることと、手続きをすることと、効果を実感することの間には、自分で思っているよりずっと距離があるということだ。
税理士に言われた翌月に加入したのは、確定申告で「自分がいくら税金を払っているか」を2回見たあとだったからだ。1年目の確定申告では「こんなに払うのか」と驚いた。2年目は「また同じだけ払うのか」と思った。その「また」があったから、税理士の一言で動けた。
もし1年目に小規模企業共済を知っていたら、すぐ加入しただろうか。正直、わからない。「あとでやろう」と思った可能性は高い。iDeCoの増額を2年放置した自分を知っているから、そう思う。
2年間の数字を並べてみる
逃した控除の内訳を整理する。
iDeCo(掛金増額の先送り):
- 差分: 月4万5,000円 × 12ヶ月 = 年54万円の追加控除
- 2年分: 108万円の控除を逃した
- 節税損失: 約21万6,000円〜32万円(税率と国保減額による)
小規模企業共済(制度を知らなかった):
- 掛金: 月7万円 × 12ヶ月 = 年84万円の控除
- 2年分: 168万円の控除を逃した
- 節税損失: 約33万6,000円〜50万円
合計:
- 逃した控除: 276万円
- 節税損失: 約55〜83万円
この数字をどう見るかは人によるだろう。「たった55万円じゃないか」と思う人もいるかもしれない。
ただ、これは「何もしなかった2年間」の代償だ。投資で55万円の損失を出したら、自分の判断ミスとして記憶に残る。でも「節税をしなかった」ことによる55万円は、損した実感すらない。通帳の数字が55万円少ないことに気づかないまま過ぎていく。
見えない損失。これが一番たちが悪い。
3年目の春から、何が変わったか
制度をフルに使い始めてから、確定申告の景色が変わった。
iDeCoと小規模企業共済の合計で年165万6,000円の所得控除。これに青色申告特別控除65万円、基礎控除48万円を加えると、課税所得がかなり圧縮される。
国民健康保険料も目に見えて下がった。国保は前年の所得をベースに計算されるから、所得控除が増えれば翌年の保険料が減る。フリーランス1年目に「年間50万円近い保険料」に驚いたが、制度を使い始めてからは明らかに負担が軽くなった。
株を買い増すか、iDeCoに入れるか。同じ金額でも、iDeCoに入れたほうが確実にリターンがある——税金が減るという、100%確定のリターンだ。「投資のリターンを1%上げる努力」より「控除枠を埋める作業」のほうが、期待値は圧倒的に高い。
3年目の春に気づいたこの感覚は、今も変わっていない。
それで、今はどうか
ここまで書いて、ふと思う。
iDeCoの増額を2年放置し、小規模企業共済を2年間知らなかった。その反省から制度を調べ直し、使える控除はすべて使うようになった。
——で、今は?
たぶん、また何か見えていないものがある。
2年前の自分が「iDeCoの掛金を上げればいいだけの話だろう」と言われても動けなかったように、今の自分にも「それ、やればいいだけなのに」と未来の自分が呆れることが、きっとある。
制度じゃないかもしれない。仕事の取り方かもしれない。健康のことかもしれない。わからないが、「見えているのに動いていないもの」は、探せばたぶん見つかる。探す気になれば、の話だが。
サイドFIREの後悔は何かと聞かれたら、辞めたことではない。
見えるようになったあと、動くのに2年かかったことだ。
だからもしあなたが今、会社を辞めることを考えているなら——あるいはもう辞めたあとなら——iDeCoの上限額と小規模企業共済の存在だけでも、今日調べてほしい。検索すれば5分でわかる。手続きは面倒だが、放置した2年間のほうがずっと高くつく。それは私が証明した。


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